共存の森・関東は、東京から車で約2時間、千葉県市原市にある「鶴舞創造の森」、その近隣の山小川集落で活動しています。
千葉県と里山活動協定を結び、県有林である「鶴舞創造の森」(総面積は33.28ha)で平成16年度から里山の保全、整備及び活用の促進を行っています。
この森では昔使用されていた炭窯も見つかり、ここから切り出した木はその場で炭に焼き、燃料材として利用されてきました。この森はかつて里山として人々の暮らしに密接にかかわっていたことがうかがえます。しかし、時代が移り変わるとともに、炭焼きや里山が活用されなくなり、手付かずの森が広がっていましたが、当NPOやさまざまな地域団体が手を入れることにより、広葉樹、常緑樹、スギ・ヒノキ林を中心に湿地や谷津、植樹地や多様な植生・生き物の成育空間や景観を形成しています。
鶴舞創造の森の近隣に位置する鶴舞地区山小川集落は、48戸120人が暮らす集落です。ここでは昭和30年代まで、多くの世帯がジャガイモやサツマイモ、小麦などの畑作と稲作で生計を立てていました。しかし、昭和40年代、ゴルフ場などの商業施設や工場が近くにできたことで働き口が増え、徐々に田畑が手放されるようになりました。しかし現在でも多くの世帯が一世帯で食べる分の田んぼと畑を所有し、昔ながらの「自分で食べるものは自分たちで賄う」暮らしを続けています。近年では、自家用の作物の一部を産直に出荷しています。一方、平成19年ごろから田畑として利用されていた土地に圏央道のインターチェンジの建設が始まり、集落の景観は大きく変わってきています。
この地域での暮らしは昭和40年代の高度経済成長をきっかけに、大きく変化しました。近隣に商業施設や工場が生まれたことで、働き方に変化が訪れました。また、薪炭の利用から石油など新たなエネルギーを使用する生活に変わったことで燃料の供給場だった山の利用価値が薄れ、山小川集落で日常的に山に出入りする人は徐々に減少し、それに伴い森林の多様性も失われていきました。山小川集落には炭焼き名人に選定された古関幹雄名人がいらっしゃり、「炭焼き」という山の木々を炭化させて燃料として利用する技術もまだ残っています。その技術を継承することで、新たな森林の利用法を考え、生物多様性を維持することもできます。一方、鶴舞の山々には、クマガイソウやキンランなど数多くの希少植物種やフクロウが生息しています。鶴舞や山小川には豊かな自然生態系が保たれていることが窺えます。
しかし近年、新たな変化が訪れています。その原因が、現在建設中の圏央道です。圏央道が開通することで、今までよりも都心からのアクセスがしやすくなり、便利になる一方で、山小川の暮らしはますます変化していくことでしょう。それにより集落の中で、はぐくまれてきたコミュニティや、豊かな自然が徐々に失われていくことが懸念されています。
そこで、共存の森・関東では、鶴舞や山小川の暮らしを繋ぎとめるため、私たちの目から見た都会にはない人々の暖かさや豊かな自然、地域の資源に目を向け、山小川集落の魅力を発信し、新たな山の活用やライフスタイルを提案していこうとしています。
「鶴舞創造の森」では、2004年に活動が始まりました。間伐や遊歩道の設置・整備、山菜とりなどを通して、森の名人や地域の方々、樹木・環境ネットワーク協会のグリーンセーバーの方々の協力を得て、里山の保全・整備活動を行うとともに、地域の暮らしを学んでいます。
山小川集落では、2007年から炭焼きや稲作など集落の暮らしを体験してきました。2009年から「山小川集落の一員になりたい!」という思いのもと、様々な手法を用いて、集落の暮らしの魅力を探っています。大工さんや茅葺職人、昔の暮らしを知る集落のおかあさんたちの話を「聞き書き」しました。また地元学の手法を使って、一軒一軒の庭の様子から、暮らしの様子をお伺いし、集落を歩き、作物の種類や一軒の農家が耕作している田畑の広さや場所など学びました。暮らしの様子を知ることで、山小川の人々がお互いに協力し合いながら、地域の行事や共有地の管理を行っていることを知りました。地域での互助組織を維持することで、今日まで自分たちで食料やエネルギーなどを賄う暮らしを維持していたということに気づきました。今年は、炭焼きを通して山の利用方法を学び、里山の利用や整備と関連付けて山の利用の仕方を考えています。
私たちは山小川での暮らしを学び、地域の結束力の強さや、自分たちの食べるものは自分で作るという地元の暮らし方を山小川の魅力だと感じています。山小川が新たな転換期を迎える中で、私たちは地域の暮らしを学びながら、山小川の一員になることを目指しています。
滋賀県大津市にある堂町は、琵琶湖から注ぐ瀬田川流域にある田上(たなかみ)山系の麓に位置し、町の中を大戸川が流れるのどかな農村です。集落には、瀬田丘陵の一部であり、龍谷大学が所有する「龍谷の森」と呼ばれるかつては地元民が里山として利用してきた森が隣接しています。年間を通して、家内安全・五穀豊穣を願うお祭りが多く残り、農業を中心とした四季を感じる暮らしがあります。
集落営農を地域一丸となって取り組んでいる堂町では、春と秋には水路掃除を地域の男性たちが総出で行い、協働作業を通して、世代を越えた交流を持ち続けています。近くの上田上小学校では毎年、高学年になると大豆を育て地元のおばあちゃんに味噌作りを学ぶことなども行われています。活動に行く学生に、地元の方も気持ちの良い挨拶を交わしてくださり、それぞれの季節で収穫できる野菜をいつも帰りに持たせてくれます。
また、堂町の中を流れる大戸川は、明治に二度の大水害をもたらしました。大戸川の源流域にある田上山は、長い間はげ山だったため、大雨が降るたびに下流域に水害を引き起こしたのです。そのたびに川の近くに住む方は牛や家財を持って家を移されたそうです。
緑の濃い瀬田丘陵は、人々と自然が共生の時を過ごした里山の名残を残しています。多くの動植物を受け入れる人間の思いやりと知恵が、堂町の方との話の中にたくさん出てきます。大戸川の歴史と文化とともに、農を中心とした素敵な風景が堂町にあります。
田上山がはげ山になったのには理由があります。ヒノキやスギなどの巨木が林立する美しい山だった田上山は、奈良・飛鳥時代に宮殿や社寺の建設のために大規模な伐採を行いました。また、製鉄の燃料、炭の材料、農地の肥料としても伐採が行われました。その結果、生物の多様性が失われ白い山肌をさらしたはげ山が誕生しました。緑を失ったことで雨が降るたびに土壌が流出し、風化した花崗岩の砂は瀬田川から淀川を下って大阪の港を埋もれさせてしまうほどでした。明治に入り、西洋技術による砂防と植林を行い、現在の田上山はマツを中心とした針葉樹に覆われた緑の山になりました。地元で育った共存の森・関西メンバーも小学生のときに植林を経験しています。これからも植生遷移を観察し、多様性の復元を記録します。
もう一つ、美しい琵琶湖や河川を守るため、堂町では集落営農で「環境こだわり農産物認定制度」と呼ばれる新たな農業に先進的に取り組んでいます。お米と麦と大豆を減化学肥料・減農薬で育て、濁水を河川に流さない、手間と根気のいる農業を集落が一丸となって行っています。営農組合の方は私たちにこう言いました。「おれたちはなぁ、国を守る米をつくってんだ。」田んぼの横を通る水路には毎年のようにホタルが現れます。現在は、集落に隣接する龍谷大学のメンバーが中心となり、地元堂町の環境こだわり米を学内の食堂で提供する取り組みをスタートさせています。
堂町の人が作った美味しいお米を地元の大学生が食べて地域とつながり、地域の暮らしをみんなで支える。歴史と風土が残る地域で、生物多様性のゆりかごである里地里山と共存していく道を、私たちは堂町と一緒につくっていきます。
共存の森・関西は2004年の夏から、堂町での活動をスタートしました。隣接する「龍谷の森」を通って堂町に通い、「里山と人とのつながり」をテーマに、おばあちゃんに堂の昔からの暮らしを「聞き書き」したり、森の定点観察をしたりと、地域を知るところから始まった活動は現在、「お隣さんになろう」という新しいモットーを掲げ、活動をしています。
一つは、堂町で集落営農をされている方から農業についての勉強会を行い、食べ物と暮らしを考え、自分たちも農作物を作ることを始めています。耕作を放棄している堂町の田んぼにソバを植え、刈り取りからソバ打ちまでを龍谷大学の学生や地元の小学生、堂町の方々と一緒に行っています。年末になると堂町の皆さんを呼んで、収穫祭を開催しています。2011年からは、ソバに加えて堂町の集落営農が作っているものと同じ大豆も植えました。天気と土と水を気にしながら、毎年の収穫を楽しみにしています。
また、堂町の年間行事にも参加させていただき、堂町の風土と文化を体いっぱいに体験しています。神輿巡業では堂町の若い世代と新たな交流ができ、一緒に大人神輿を担いで堂町を練り歩いています。子ども神輿を引っ張っている子どもたちが大人になっても、堂町のお祭りや風景、雰囲気を大切に思い、この地域で暮らしていってくれるように、私たちと同じ世代の堂町の方と一緒に盛り上げていきたいと思います。共存の森・関西は堂町で「地域」と「世代」と「大学」をつなげる活動を続けていきます。
奈良県川上村には日本最古といわれる雄大な吉野杉の人工林が広がっています。高原地区はその中に位置し、吉野林業と共に歩んできた集落です。
吉野林業はおよそ400~500年前に焼畑地に植林をしたことから始まったと言われています。山地である吉野地方は急斜面で畑地が少なく農耕に向かないことから、森林資源を生業の中心にしてきました。吉野林業の特徴は極度に密植を行い、長期間で徐々に間伐を繰り返して、均一に木目が詰まった無節の木材をつくる点です。無節の材は昔から樽材として重宝され、強度に優れた吉野材は建材としても珍重されています。150年かけてこれらの大径木材を生み出すことを可能にしているのは、優れた施業の技と木を余すとこなく活用する樽丸や桶づくり、箸づくりといった技術、そしてその技を受け継ぎ、代々生業としてきた吉野地方の暮らしがあったからです。
高原集落でも、ほとんどの人が林業に携わっていましたが、林業が低迷していくにつれて若者が集落を離れ、現在は70数軒の家に約120人が暮らしており、その半数が高齢者のみの世帯です。
集落の歴史は古く、木地師(漆器などの器を木から刳り抜く職人)の活躍に大きな影響を与えた、惟喬親王を祀った氏神神社があり、秋には室町時代から続くといわれる例大祭が行われます。また、年間を通して集落内の社寺で行う祭事も数多く残っており、伝統的な決まりを継承しつつ、女性や集落外の人も関れるしくみをつくって、高原の伝統やくらしをつなげていく工夫を凝らしています。
川上村には、樹齢250年以上の杉の人工林があり、太く真っすぐに育った杉と杉の間の地面は明るく、緑の下草に覆われています。この木々を自分の代に伐ることなく守り続けるためには、林を手入れし残してくれた先祖への敬意と、その林を引き継いで育てていく誇りと、次の世代の生活への思いやりが必要だったでしょう。そうして吉野の山は人の手によって維持され、よい材を生み出し続けてきました。
高原も吉野林業一筋で暮らしを立ててきた集落です。しかし今は、木材の値段が下がり、林業の担い手も少なく、手入れの行き届かない山が増えました。そのため、林間に光が入らず、鹿の食害もあり、地面には草木がありません。土が雨で流れてむき出しになった木の根を見て「山の歯槽(しそう)膿漏(のうろう)」と表現された地元の方もいました。まさに、生物多様性の危機を迎えていると言っても過言ではありません。高原の山も手入れをすれば明るくなり、地面には様々な植物が生え、木は立派に育っていくのでしょうが、木材が安く林業を継ぐ若者もいない現状で、それは難しいかもしれません。
しかし、これまで高原の人々は何百年にもわたり山を守り、山の恵みを得てきました。春には山菜を採り、サルノコシカケという薬用のキノコを採ったり、ホオノキの葉で包んだお餅を作ったりしています。子ども時代に野イチゴをつんだ話や、間伐材を薪にした話も聞きしました。また、集落の外で暮らしている人も一堂に会する秋の例大祭がとても大切にされています。お祭りの前夜には神社でおよそ1石(=1000合)ものお餅がつかれ、翌日にまかれます。空き家が多くなってきた高原ですが、このときばかりは大勢の人が集まり、お年寄りも競ってお餅を取り合いにぎやかになります。このような暮らしを連続させるための知恵こそが、多様性を維持するために必要なことであると気付かされました。持続的な生物多様性の裏には、持続的なコミュニティが存在しなければなりません。
川上村での活動は、平成14年度「森の名手・名人」の杉本充さんとの出会いから始まりました。名人から日本最古の人工林を見せていただくとともに、樽丸づくりや割り箸を使った職人、そして吉野材の新たな活用に取り組む方々と出会い、吉野林業を守り伝えようとする人々の思いと取り組みを学ばせて頂きました。
また、川上村にある「森と水の源流館」が開催する「ふれあいデー」では、毎年ブースの出展をして名人との座談会を開いたり、吉野材を使ったおもちゃ作りを行って、地元の方や他府県の方に、私たちが見て聞いた吉野の暮らしを伝える活動をしています。
2009年に行った名人フォーラムをきっかけに関わりを持った高原集落では、その翌年から「地元学」を用いて集落内を巡り、高原の暮らしを一緒に振り返ったり、「聞き書き」や例大祭への参加を通して高原での暮らしの変遷、そしてそのときどきの地元の方の想いを伺っています。
高齢化が進み、住む人が少なくなっていく高原で、それでも祭りを続けようとする集落の人の想い、孫の代で伐る木の手入れを続ける名人の想い。現代の暮らしの中では気にかけなくなってしまった地域や、先祖、子孫といった世代のつながりを高原の人や名人から教えてもらえます。
高原や吉野地域が抱える問題は林業や木材の活用など、日本全体の問題に深く根ざしています。私たちはまず、高原の方と地域の暮らしに対する想いを共有して、その伺った想いを「聞き書き」作品や私たちの言葉に代えて、たくさんの人へ発信していきたいと考えています。
東京から車で6時間、新潟県村上市高根地区。共存の森・北陸は、山形県との県境に位置する高根集落で活動しています。高根集落は、三面側支流、高根川の最上流域にありながら戸数180戸、人口773人で、いまだに3世代同居の家が多く残る集落です。農業や林業などの第1次産業がメインの産業でありながら、市の中心部に働きに行くサラリーマンや大工や溶接工といったあらゆる業種のあらゆる世代の方々が元気に過ごしている集落でもあります。そのため、地域では夏祭りや、集落全員が参加する運動会や相撲大会などの地域行事もいまだに盛んに行われています。都会にはない賑やかさが高根集落にはあります。
高根はいつでも生き物を身近に感じられる場所です。春、雪解けが始まると山菜が採れ、棚田では田植えが始まります。田植えをしている足元にはニホンイモリが行き交います。夏、夜には満点の星空とホタルが舞います。秋、紅葉の美しい天蓋山に登った帰りには山葡萄を皆で食べたり栃餅を食べます。冬、銀世界になると多くの生き物は眠りにつき、春を待ちます。「多くの生き物に支えられている高根の人たちは、高根の山々に棲みつく多くの生き物を守っている。」と、共存の森メンバーの一人である新潟大学の学生は言います。生物多様性の維持に人間という存在が欠かせないことを教えられます。
このように高根の魅力の源は、美しい棚田とそれを囲む山々です。高根集落には約1万町歩の共有林と約92町歩の棚田があり、山はきれいな水を生み、その水を利用しておいしいお米が作られています。棚田がつくる水面は、ビオトープとして多くの生物の生育する場となります。
山々に囲まれた棚田、そこに息づくあらゆる生き物、それらの恩恵を受ける集落の人々。しかし、高根集落にも他の農山村地域と同じく抱えている課題があります。農産物や木材の価格低下、それによる農業・林業の担い手・後継者の減少、そして棚田や山々の資源や水路などの設備の管理不足が深刻化しています。
棚田に関していえば、水系の確保が重要な課題です。土砂崩れや草葉の堆積で水が一定に水路を流れないため、絶えず水系の管理が発生し、それが村人の暮らしを圧迫し棚田が荒廃して生態系が乱れていくという悪循環が生まれています。それに追い打ちをかけるように、近年は猿が棚田を荒らす獣害により、棚田の維持は一層困難さを増しています。
私たち共存の森・北陸は、人の繋がりやぬくもり、棚田や集落を囲む自然に魅了された学生メンバーが、集落の方と天蓋高原の一角にブナの植樹を行う事から活動が始まりました。活動は今年で4年目になります。主な活動は、棚田保全のための稲作、ブナの植樹地の管理、道普請や水路清掃などの地域の共同作業への参加などです。昨年度から、棚田の活動には、キヤノンマーケティングジャパン(株)の社員さんもCSR活動の一環として関わっています。
1300本ほど植えたブナはまだ小さく、森と呼ぶには何十年とかかるでしょう。しかし、ブナが立派に育ったならば、豊かな水を高根の田んぼや自然環境に提供してくれるということを想像しながら、現在もブナの植樹地の管理を続けています。
今年は「水路」をテーマに地域で活動しています。山からの水を棚田に提供する水路は、高根の米づくりに欠かせないものです。しかし、地域との関わりを深める中で、水路に様々な問題があるということを住民の方から聞くことができました。私たちが調査のために訪れた小ヶ崎水路では、土砂が堆積したり、水が土に染み込むなど、水路の厳しい現状を目の当たりにしました。水路の調査と研究を通じて、水路を守るために私たちに何ができるか、内部で検討すると同時に、外部への発信を試みています。それは棚田に代表される高根の美しい自然と恵みを次世代に伝えていくためにも、大切な活動だと信じています。
共存の森・東海は、名古屋駅から車で約1時間半の距離にある愛知県豊田市内の椿立自治区で活動をしています。椿立自治区は6つの集落(綾渡、大蔵連、漆畑、室口、椿立、山谷)から成り、約60世帯、200人が暮らす地域です。
かつては、ここに住むほとんどの家族は米を作り、炭を焼き、竹を伐り出して、稼ぎを得ながら生活していました。生活に必要なものはほとんど、家の周りで揃えることができたといいます。棚田で収穫したお米と、家の傍にある畑で採れた季節の野菜を食べ、家や農機具を造る材料やお風呂や炊事に使う燃料を裏山で調達していました。生活に必要な最低限のお金は、ひと冬の間に家族総出で炭焼きをしたり、竹を伐り出して街へ運んだりして得ていました。また、田植えや稲刈りは、隣の家々や集落のなかで助け合い、お祭りやお祝い事は集落ごと執り行いました。そして、6つの集落の中心には小学校があり、子どもたちは山道を歩いて通い、学校の行事には地域の全体が参加しました。
そんな暮らしも、昭和40年頃を境に大きく変化しました。働き盛りの若者は、高収入の仕事を求めて街へ通ったり、街で暮らしたりする人が増え、小さい子どもは減っていきました。田んぼでは人の手に替わって機械化が進み、機械の入りにくい沢沿いの棚田は植林されていきました。生活の変化とともに、地域の風景もずいぶん変わっていきました。
そんな変化を経て、現在、新たな取り組みもされています。壊れて放置されていた水車小舎の復元、道路整備がされる前に利用されていた旧道の手入れ、山の頂にある石碑塚の周辺整備、展望台の再整備などです。費用は行政に協力してもらいながらも、ほとんどすべての作業を自分たちで行っています。そして、すべての取り組みに共通しているのは、昔ながらの暮らしの知恵や風景を活かしているということであり、それはこの地区に対する地域の方々の想いの象徴になっています。
この地域のかつての暮らしは、まさに里地里山の生物多様性のなかで成り立っていたと言えます。そして、この地域の特徴は、母屋、畑、雑木林、萱場、平地と沢沿い水田と水路、これらがセットになってひと家族が暮らす土地になっていることです。それがいくつかつなぎ合わさって集落となり、それが6つ集まって椿立自治区を形成しています。
しかし、生活の変化に伴い、萱場や沢沿いの水田は姿を消し、後継者の減少で耕作放棄地となる水田が増え、イノシシなどの獣害も年々深刻になっています。行政の出す補助金を活用して、集落全体で助け合いながら耕作したり、電柵や獣の捕獲などにも取り組んだりしていますが、それだけでは状況の改善には至りません。
一方で、地域にあるユースホステルを拠点として、様々な団体が活動しています。手入れのされなくなった人工林の間伐を行う団体もあり、獣害対策や多様性の維持にも寄与しています。
共存の森は、そんな活動団体の一つとして、耕作放棄地となっていた棚田のお手伝いに取り組み始めています。水車小舎の傍にあるその棚田は、数年前から耕作をしなくなり、雑草が生えた状態でした。そこを持ち主の方と整備しなおし、手作業での田植えや稲刈り、畔の草刈りなどを行っています。田植えや稲刈り時の水田には、たくさんのアカハライモリやサワガニを見ることができます。季節によって様々な種類のトンボやホタルも見られます。これらは、この地区がまだ自然豊かな環境を残し、多くの植物や生物の住処となっていること、また棚田の保水がそれら多様性の維持に欠かせないことを教えてくれます。
今後、地域の力だけではなく、様々な外部の団体が関わることで、人々の暮らしや知恵、そしてそこに息づく植物や生き物の多様性が維持されていくことが、この地域の魅力をさらに深めていくと感じ、私たちもその一翼を担っていこうと思っています。
2009年から始めた椿立自治区での活動は、地域を歩き、地域の方々の話を聞くことから始めました。牛や馬を使って田んぼを耕し、その糞を肥料にしていたこと、人工林のほとんどは元々田んぼだったこと、元からあった山は炭焼き山や燃料を調達する山だったこと、地域の人みんなでお金を出して車が通れる道路をつくったこと、民宿やシクラメン栽培をやった時期もあったということなど、昭和40年頃から人々の暮らしと風景が変化してきたことをひとつひとつ知ることができました。
また、2年目から始めた棚田のお米作りのお手伝いでは、棚田ならではの手作業での田植えや稲刈り、草刈りの大変さと、獣害の深刻さを知りました。また、たくさんのお祭りにも参加させていただき、地域の結びつきの強さを知りました。そして、活動を進めていく過程で、たくさんの方に協力をしていただき、「助け合い」や「お互い様」の精神が息づいていることを強く感じました。
最近では、地域の若者との交流を始めました。よそ者である私たちが、地域の若い人と一緒になってこれからの地域を考えていくことが、人と人の循環の輪をつくり、地域の明るい未来につながっていくと考えます。
かつての暮らしには、人々の生きるための営みによる物質の循環や、その営みによって作られる環境を住処とする様々な植物や生物の営みがありました。そして、人々が共に暮らしていく上での「助け合い」や、「お互い様」の気持ちの循環があったことも知ることができました。少なからず途切れてしまってきたその循環の輪を再びつないでいくことが、私たちの活動の目指すべきところです。
共存の森・東北地区が活動をしている山形県西置賜郡飯豊町(にしおきたまぐんいいでまち)の中津川地区は、山形県の南側、飯豊山(いいでさん)の麓に位置しています。
中津川地区で活動を始めたのは、2005年。「生きるための森づくり」をテーマに、「森の名手・名人」や地域の方々から、森から衣食住の恵みを得る知恵を体験を通して学ばせて頂きました。その中で、今なお広大な山の恩恵を享受して暮らす方のお話を伺いたいとの想いを抱くようになり、中津川地区の広河原集落で、大きな茅葺きの家を維持しながら、山の恵みを受け、山を育て暮らしているご夫婦の日々の暮らしについて「聞き書き」を始め、山で暮らす知恵と心を次世代に伝える活動を続けています。
11月ごろから約半年もの間、深い雪に覆われる中津川地区は、雪解けとともに様々な山菜が芽吹き、忙しい季節が始まります。まず、採取した山菜を塩漬けや天日干しにして保存し、冬期間の暖をとるための薪を春先に伐り出して、蓄えます。雪が消え、畑や田んぼの作業が始まると、牛のエサとなる草の刈り取りをしました。冬仕事の笠やムシロづくりの材料となるスゲやガマ等の材料は夏に刈り取って、干しておきます。そして雪が降る前には屋根の材料の茅刈り、キノコなどの秋の実りを採取して、雪の季節を迎えます。炭焼きは冬の仕事でした。
中津川地区の風土に合わせ、一年を通じて、山の恵みを余すことなく享受する営み。今では広河原集落のご夫婦のような伝統的な山村の暮らしを営む家は、中津川地区でもこの家のみとなりました。この様な暮らし方が生活の基本だった時代、先人たちは自然の恵みに感謝するとともに、自然資源を持続的に得るための知恵と節度を身につけていました。だからこそ、子どもたち、そしてまた次の世代の子どもたちへと、生きる基盤となる多様性に富んだ豊かな山を、今に繋いできたのだということを、「聞き書き」を通して強く感じています。
先人たちが伝え残してくれた多くの知恵と自然に対する節度ある行為が、多くの動植物の棲み家をつくり、再び人々の暮らしになくてはならない恵みをもたらしてくれるという基本を高橋政義さんご夫妻は教えてくれます。
共存の森・中四国地区は岡山県備前市にある日生町で、アマモ場の再生活動を通して、海と人の暮らしの多様性について学んでいます。アマモ場はいわば海の中の森にあたり、小魚の棲み家、多くの生物の産卵場であり、生物多様性の維持には不可欠なものです。
古くから漁業の町として栄えてきた日生町では、つぼ網漁をはじめ、多くの漁法が開発され、日生の漁師はこぞって全国にその技を伝え、その範囲は遠く朝鮮半島にまで及びました。
併せて日生には瀬戸内で獲れる様々な魚を調理して食する文化も伝わっており、現在も漁協の横にある「五味の市」では、旦那さんが獲ってきた多種多様な魚をおかみさんが売り、地元で消費する仕組みが出来上がっています。
また、瀬戸内の限りある資源を前に、開発精神旺盛な日生の漁師たちはいち早くカキ養殖を始め、現在ではカキの一大産地となっています。
この日生で、20年前、つぼ網漁師だった「海・川の名人」本田和士(ほんだかずお)さんが仲間に呼び掛けてアマモ場の再生活動を始めました。
つぼ網漁は通年で同じ場所に網を設置し、そこにかかる様々な魚を獲る漁法です。現在はより安定した漁獲量のあるカキ養殖などに押され、この漁法を行う人は年々減ってきていますが、一年を通して同じ場所で漁を行うつぼ網漁師は、より海の変化に敏感です。
日々、海と向き合って暮らしてきた本田さんは、20年前に日生の魚の数が減っていることに気づき、仲間とともにアマモ場の再生活動を始めました。アマモはかつては至る所に生えていた海草ですが、船のモーターに絡まるなど漁の妨害となるために駆除されてきました。一時は19haにまで減ったアマモの生息範囲を20年をかけて100haまで復活させました。
中四国地区の活動ではアマモ場の再生活動をお手伝いしながら、この伝統的な漁や日生の暮らしについて学んでいきます。